アニモ・コンチネンテ

ツイに描けぬような長文を書きます ごめんなさい

自動筆記 ~手洗いと祈り~

友人(私はそう思っている)にもっとかわいいものをかけと一喝されて泣いてしまったので今日はあまり真面目ではないことを書いていこうと思います。


私は人と比べてかなり手を洗う方だと思います。学生時代のあだ名はアライグマでした。嘘です。あだ名をつけられるくらい人の前には出ていませんでした。強いて言うなら一度かかわりのない上級生にロボット呼ばわりされたくらいでしょうか。丸一日泣きました。

 

私は手洗いが好きです。自他の創作にのめり込む以外に日常的な楽しみがあるとすれば手洗いくらいではないでしょうか。そのレベルです。

 

水道から流れる水。泡立つ石鹸。絡み合う両指。擦りあう指股。流れていく泡。泡。


手洗いの全てが空しいです。どれだけ白く、その汚濁と黴菌を殺そうが、私たちの一挙手一投足がまた更なる汚れを重ねていきます。

ですが手を洗うその瞬間だけは、清廉清浄でいることができる瞬間だと私は信じています。本当はそうではないことは良く知っています。

 

手洗いは祈りで、私の救いです。

 

誰に何に祈るのだと聞かれても答えられはしません。神様の居る居ないはそこまで考えてないです。むしろ私は自由意志を信じていない節があります。

「泣けば悲しみの深さは弱まる」という私の大好きな作家さんの言葉があります。私が泣くのはそのままでは耐えきれないからです。コップに水を注ぎ続ければあふれてしまうのは自然に適っています。わざわざ蓋をして割れるのはごめんです。私が祈るのも同様ではないかと思います。

もしくはただ単に善く在りたいから祈るのでしょう。多分そっちかな。

「うわぁ、ビックになろう」「頑張ろう」とかそういうレベルです。

客観的な答えではないですが、私は「善く在ろうとしたら良いことが起こったから善く在ろう」という学習をしたからそうしているだけで、そうであれば、スキナー箱の鳩に近いのではないでしょうか。

定期的にエサを出すように仕掛けた箱の中に鳩を置いておくと鳩が「ある行動をしたからエサが出てきた」と学習する実験がありました。私もそのような無意味と言える学習の上に、善く在ろうとしてるのかもしれません。

「定期的にエサを出すように仕掛けた箱」が私の周りの世界で、「その中の鳩」が私です。

哲学のお話だと唯我論はアホの考えみたいですが、結構そういう考えをもってしまう方々は多いのかもしれません。私の場合はアホだからです。

とかく私にとって手洗いは祈りです。禊祓とも言えるかもしれないです。
私は善い人ではないし、善い人になることもできないです。ですがそう在ろうとすることはできます。そうでなければ私には生きる渇望というものが現れません。人参を眼前に吊るされた馬のように在りもしない何かに妄信的に向かっていかなければ、動くことすらままならないと思います。

「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」

進まなければどうなるのでしょう。試すために止まりたくはありません。

歩けなくなった馬は死ぬしかないからです。

どうやら私は鳩で馬でアライグマのようです。悪事で人を脅かし続ければ、いつしか頼政の矢に討たれて死んでしまうのでしょうね。そういう点から鑑みると、自己保身のために善く在ろうとしているのかも。

 

なんだか眠くなってきましたので、今回はここらで筆記を閉じます。

おやすみなさい。